時間の経過


昔の日記を読んでいると、どこも行く当てもなくふらふらと歩き生きてた時間がついこの間のようで、ずいぶん遠い。価値観というのは不思議なもので、環境や状況に揺り動かされ、前は缶ビールではなく瓶ビールに幸せを感じていたのが、今では何でもいつでも買えるのは当たり前になってしまって、小さな幸せは影を潜めてしまったよう。それでも、そういう自分を少し取り戻したくて、ここに戻ってきたのかもしれない。


うまくいかないことが続いて、昔の自分を否定して、とにかく周りに、新しい環境に適応するために自分をかなぐり捨ててやってきて、一つの結果として今の生活があるけど、前よりも日々の生活の充足感は減ってしまったような気がする。僕にとって大事なものって何だったんだろう?


一つ一つの生活。前はもっと感じることができた日々の息遣い。何かを発見するには心と体を落ち着ける必要があって、かつてはそういうことが意識をしなくてもできていたのに、今は日常に流されて、自分に対して雑な生活しかできなくなって、そして、またもっと色んなものを見失っているような気がする。


失う過程が生きるということなのだろうか?でも、そうではないことを色んな人が教えてくれるのに、未だ生活に根付かせることができていない。


もっと深く、「本当に分かる」ということが必要なんじゃないだろうか。インスタントな生活じゃなくて、「本当」がいっぱいある生活。昔は何も持っていなかったけど、「本当」がいっぱいあったから、結構満ち足りて幸せだったような気がする。今は色んなものは手に入ったけど、「本当」のものが少ないね。感覚、息遣い、物音、孤独、静寂の中の音、夏の夜のもったりとした闇、秋の孤独な空気、僕を包む世界。


さて、何から始めよう。

Half a year

The span between the dairies has became half year.
The latter diaries has almost lost the meanings substantially to write for the self-mind control.


Looking back to the times a little time ago, the situation has became changed.
Encountered some books and some ways of thinking like Native Americans and old ancient Chinese philosopher, now I'm in the different place where I was last year. Perhaps that is a positive change.

The situation has has not changed but the way of perceiving has changed a little.
As a result, whether we can be happy or not depends on our ability to feel the happiness.

My father seems to have decided to retire on September this year. Time is passing by earlier than we expect. I became 30 years old this year and it means these things.

I bought Mac O.S 9 for starting music again. That may end up with the only plan. But we can not live without act. Only acting makes us live. Even if it is infertile, only acting produce the meaning of life.

Chill Out


最近の脳科学ブームで『BRUTUS』なんかでも紹介されて、結構メジャーになっている言葉。社会がこれまでの「動的」なものへばかり傾いていた反動として「静的」な物事に興味が向いていて、個人的にもバブルやトランスという激しいものより、エレクトロニカやチルアウトのような静かでポップな流れを歓迎したい。


もとい、この「チル・アウト」というのはテクノやトランスミュージックの亜流として出てきた音楽的な感覚やジャンルのことだったけど、社会が「癒し」を求めるような中で、どちらかというと、その瞑想的な精神状態の方に今では主観が置かれているようだ。


最近、水泳を始めて、会社の帰りや土日はたいていジムに行って、泳いだり歩いたりして帰ってくる。水に2時間くらい浸かって過ごした後は不思議と体が温かくなって、精神的にもほぐれていて、そういう状態で地下鉄を上って裏道を通って帰ると、鈴虫の声がすごくて、こういう状態で自然を感じるのは「Chill Out」な感覚だなって思ったのと同時に、子供の頃、毎日外を駆け回って、夕闇にまぎれるて何も見えなくなる頃に帰る時はいつもそうだったのを思い出した。


今の都会には闇がない。僕の子供の頃には夏でも夕方には真っ暗になって、電灯の合間を帰るのいつも怖かった。脳がリラックスするにははコントラストが必要らしいけど、都会では一つその条件が抜けたことになる。


体もリラックスするにはやっぱりとことん使った疲労感の中にしか本当の癒しはない気がする。ちゃんとした疲労がなければちゃんとした回復はない。体にとっての疲れや、脳にとってのコントラスト、そして自然との対峙みたいなものがチル・アウトの条件なら、昔は人間は日々、自然の中でチル・アウトしていたんだろうと思う。脳も体も疲れた中で自然の中に抱かれていれば、人間は自然と心と体がリセットされて、新しい自分を再構築できたのだと思う。


体を使うことをやめて、昼も夜も明かりの中で暮らし、自然とも分け離れてしまった都会の人間が代替的に色んなところに「癒し」を求めるのは自然とも言えるし、それくらい今の人間の生活が危機的とも言える。

ハンマースホイ


後姿が気になってヴィルヘルム・ハンマースホイを見に行ってきた。


ある種の感覚に美意識を感じて、それを追求し続けた結果としての一つのスタイルは完璧のようでいて、どこか人を寄せ付けない。見ているうちにぐっとこっちが緊張して疲れてしまうようなところのある作家だった。


若いうちは誰しもストイックで求道的な道に憧れるけど、それを貫徹してしまう強さにはある種の辛さを感じてしまう。ま、自分が弱いからだけどね。弱いの万歳。肯定してふと違う方向を見た時、そこに広がっている世界を知りたい。変わらないことより変わることに普遍性と生の自然な姿があるように思う。

「飢え」の感覚


最近、ジムに通うようになって、走ったり、とりわけ泳いで帰った後は体がしばらくの間暖かくて血行が急激に良くなっていて、精神的にもすっきりと憑き物が落ちたようになって、アルファ波が出ているのが分かる。


運動をするようになって少し前よりは体の調子が良くなりつつあるのと、食事が美味しく感じるようになったのは面白かった。運動をした後だけではなく、普通に昼を食べる時も食欲が出て、食べ物を美味しく感じるようなった。少し前まで本当に義務的に食べるように食事をしていて、食べるという行為は動物にとって最も本来的な行為の一つのはずなのだから、いかに自分が動物的に不自然になっていたかが良く分かる。


それと仕事の後、11時位まで食事もせずに運動をすると、体の疲労感と空腹感がすごい。そういう時に何か飲み物でも糖分なんかを与えてやった時は、体中が必要としていたものに反応する感覚があって面白い。けれど、本来的に動物というのは「飢え」ている、空腹というのが普通なわけで、人間だって、農業を始めたからといって豊かになったわけではなくずっと貧しくて、近代になってもそれは変わらず、戦後もずっとそうで、こんなにどこへ行っても食べ物で溢れている環境になったのは、ここ半世紀の中の出来事だ。そう思うと、この急激な変化の中で、人間が動物としていかに歪められてきているかを考えると、最近の「未病」とか言われる色んな不調も起こって当たり前のことのように思える。


体の調子が良くないのはいつだって何かのサインなのだから、慢性的に不調なのだとしたら、それはライフスタイル自体が間違っている可能性が高い。そういう時、立ち返る方向はやっぱり動物を参考にすればいいかもしれない。人間ももっと昔は「動物」的だった。豊かでないと明日の食うや食わずの心配をする。それは動物してはとても自然だ。豊かになると食事の心配が要らなくなる。すると将来とか今とか、孤独とか社会とか余計なことばかり考えるようになって、どんどんこっち側の精神世界が肥大していく。


今の日本で都会で生きるということ、動物として生きるということ。その折衷案としてのライフスタイルを模索しないと、人間はどんどん弱っていいくような気がする。

連休


七時くらいに目が覚める。まだ寝る。九時ぐらいに起きてまた寝る。結局昼頃まで寝て起きる。夜もずっと雨が降っていて、朝方も降っていた気がするけど、お昼頃には上がっていた。


何をするでもなくテレビをつけたら、NHK大河ドラマ篤姫がやっていたので見る。終わったのが午後二時頃。恵比寿に出掛けて昼を食べる。これといってすることもなく、何か飲みたかったので六本木の会社に行って、コーラとかお茶を飲みながら新聞を読む。会社には僕の他には二人いた。休みもいつもいる営業の女性と話をしたりして、休日の空調の入れ方も教えてもらう。ウェブからビルの空調システムにアクセスして、そこからいつでも空調が入れるようになっていた。さすがミッドタウン、ハイテクと感心したが、教えてくれた人はさほどでもなかったらしい。


たまっていた新聞を二週間分くらい読む間にPCで5年分くらいの外株ファンドのパフォーマンスの分析をやる。別に計算したファンドのパフォーマンスとまぁまぁの整合性で使えそうな数字だったので満足して帰る。


恵比寿でカレーを食べて帰る。ちょっと辛いのを頼んでしまって後悔する。いつものように恵比寿のバーやレストランの前を通って帰る。連休でどこも人でいっぱいだった。


帰る。少し音楽を聞いたり、ウェブをしたりしていると、テレビで相棒がやっていたので見る。


風呂に入って寝ようとするが遅くまで寝ていたので寝付けない。テレビをつけると深夜も相棒がやっていたのでまた見る、ブームだなぁ。うちの親も毎週見ているらしく、映画も見に行くらしい。時間つぶしには悪くない。そう言えばインディージョーンズの新作の宣伝が六本木駅にあったな。インディージョーンズは興奮する。見に行きたいけど、一人で行くのも難だな。まぁ適当に。

電脳コイル


 NHKで最近やっていた(今も再々放送くらいしてるのかな?)『電脳コイル』が面白くて、26話あるのを2、3回繰り返し見てしまった。そんなにまめにアニメ作品をチェックしてるわけじゃないからなんとも言えないけど、本当に秀逸な出来だと思う。


 現実と電脳世界という世界観をベースに、手で触れられるものと触れられないものへのテーゼ(どっちが本当?)とか、友達や人と人の距離なんかを、小学生の少年憧憬が散りばめられた美しい大黒市を舞台に、謎の電脳生物・イリーガルとか「あっちの世界」とかちょっとオカルトちっくな小学生の頃には必ずあったようなうわさを都市伝説という形で織り込みつつ、物語が進んでいく完成度と心くすぐる魅力的な世界に見たら必ず引き込まれます(…多分、人によって)。


 所々にはさみこまれたエピソードも小学生の頃の誰にでもあるような思い出をこの世界観に持ち込んで、再現していて素敵。そして、「4423」の謎が明かされる最後2話のクライマックスの高まりも圧巻です。音楽も世界観にマッチしていてとてもいい。


 原案・監督の磯光雄という人は押井守高畑勲作品など、所々で名前を見かける人みたいだけど、とかく、NHKでひっそり流して終わるにはもったいない作品*1

*1:平成19年度文化庁メディア芸術祭アニメーション部門優秀賞を受賞しているそうです。