何もない日曜日、神社、小さな喫茶店
今日は珍しく心が穏やかな感じで、何だかすごく久しぶりに普通な日だった。
昼頃起きて、洗濯を済ませて、中野へ出て、新宿へ出て、それから中野へ帰ってきて、喫茶店で新聞や本を読んでるとすぐに日が暮れる。ここ数年変わらないいつもと同じ何もない日曜日。
今の職場の近くには神社が多くて、一人で昼御飯を食べに行った時なんかはふらふらと神社巡りをしてみたりする。どこもそれなりに趣があって悪くないけど、先週見つけた八幡神社という神社は緑がとても美しい神社だった。手を清めて、お参りをして、それからおみくじを引いた。何が出たかは、まぁ、これからの僕次第ということで。
最近、家の帰り道に出来た喫茶店で夜、少しだけ飲んで帰ったりする。11時には閉まってくれるので深酒にならないですむし、店の人も芝居や音楽の話が出来たり、フィッシュマンズで演奏していたHONZIの友達だったりして、居心地も悪くなくて、金曜や土曜の夜はそこで少し飲んで帰る。
取り合えず、何事もなく、取りとめて書きたいようなこともなかったんだけど、何となく。日々は特に進む気配もなく、また落っこちていくんじゃないかといつも思いながら、取り合えず何とかね。
10年位どこか間違った生き方をしてきて、最後の辺りは自分を投げ出してしまって、色んな物事を損ない壊し続けるばかりだったと最近は思う。都合が良いだろうけど、どこかでやり直そうと思って、やっぱりそれで何かが変わると思ってたところもあったのかもしれない。ずっと長い時間がかかるということを認識はしても、それと長い時間を実際にやり過ごしていくのは当たり前に全然別で、やっぱり結構大変な感じだね。
何だかまいっちゃうよね。まぁ、毎日のようにまいってるんだけどね。取り合えず、物事が続いていくにはどうしたらいいかを探しながらやってくしかないし、続かないにせよもう後ろは見れませんね。
10月最後の気分
良いこと、悪いこと、意味のあることかないことか、今はまだ判断できない。空っぽの自分を抱えたまま、とにかくもがくしかなくて、取り合えず一つ一つの物事に意味なんか感じないように、何とか歩いていくだけかな。
楽とは思ってなかったけど、まだまだ大変な日々です。
渦中
色々なことを少しずつ、前とは違うように、そしてそれが僕を囲む世界を変えていくにはずっと長い時間がかかることも分かっている。
物事の在り方はまだ変化をし始めたばかりで、まだ何か語るこということはできないけど、取り合えず少しだけ書き置いておく。
もうすぐ27歳になります。
野方、コーヒー豆、川の話、団地の話
僕の住んでいるのは大和町といって、ちょうど高円寺と野方の真ん中辺りにある。だから高円寺の街へ行くのも野方に行くのも大体同じ位の距離だ。
野方にはコーヒー豆を買いにたまに行く。高円寺の駅前にもコーヒー豆を挽いて売ってくれる所があるけど、結構値段がするので、いつも野方まで自転車かあるいは歩いて足を伸ばすことにしている。
一軒家の立ち並ぶ道や路地を散歩しながら大和町の奥へ進むと、やがて妙正寺川という川に出る。東京の街で唯一不満があるとすれば、川の土手を全部コンクリートで固めてしまうところだ。土をそのままにして、草むらや土手を残しておけば、夕暮れ時に散歩する時なんかとても良いだろうにと思う*1。
とは言いつつも、妙正寺川沿いをたまにランニングをしたりするのは好きだ。鷺ノ宮まで行って往復してくるのがいつものコース。途中に団地があって、僕は子供の頃をずっと団地で過ごしたこともあって、その空気や雰囲気には懐かしいものを感じる。草木と子供が多くて、それでいてひっそりとしていて、夜になると急に真っ暗で静かになって、階段に電気の付いていない時とかは中に入るのが怖かった思い出がある。荒んだ雰囲気のものあるけど、妙正寺川沿いある団地は悪くない雰囲気だ。
妙正寺川を越えて、住宅地の中を4、5分歩くと野方の街に出る。JR線沿いの街が都会的なのに対して*2、西武線沿いの街はどこか垢抜けていなくて、店や街並みなんかも郷愁的だ。コーヒー豆屋に寄って、それから野方の街を少し散歩して帰った。
将来住むなら高円寺にも近いし、西武線辺りの街は落ち着いてていいな。
7月の現状
目が覚めたのは8時過ぎだった。もう少し寝ていたかったけど、それ以上眠れなかったので諦めて起きた。
お湯を沸かしてコーヒーを入れる。テレビを付けてすぐに消す。ここ1、2週間全くテレビは見ていない。たまっていた洗濯物を洗濯機に入れて洗濯機をまわす。それから、ここ1週間以上手をつけていないままにしていた流しの食器を洗う。
オーベーションの弦が切れていたことに最近気付く。4月までは弾いていたはずだから、多分5月のどこかで切れていたのだ。それも悪いしるしのようなものだったのかもしれない。5月は1度も楽器を手にしなかったのだ。弦を緩めて、そっと置いておく*1。
この街に8年も住んでいて、すぐ近くにあるのに一度も行った事のなかった「豆の木」というとても小さな洋食屋さんに最近、やっと初めて入った。ハンバーグがおいしい店で、違うメニューを頼もうと思って入るのに、結局いつもハンバーグを頼んでしまう。昨日帰りに行くと、カーペンターズがかかっていた。カーペンターズを聞くと、高校生の頃やっていたテレビのドラマを思い出す。
微かな良い兆し。どこかで鳥が鳴いている。大気の音が聞こえる。日差しは移り変わって、空はまた高くなる。歩く道の表情を僕はほとんど知っている。どこかの家で風鈴が鳴って、誰かの話す声がして、遠くで車の走る音がする。多分そういう意味で付けた名前。
*1:オーベーションは高校生の時買ったもので、随分順に反ってしまっていて、今はナイロン弦を張っている。梅雨時だから、弦を緩めて置いておけば少し反りが戻ってくるかもしれない。
12月の記憶
仕事から帰って部屋で小説を読んでいたら、ふと去年のクリスマス辺りに友達と二人で飲んだ時のことを思い出した。
何でそんなことを思い出したのかはよく分からない。たまたま読んでいた小説にバーで酒を飲むシーンが出てきたせいかもしれないし、あるいはその時と同じような境遇で同じような気分になっているせいかもしれない。
去年の12月24日の夜、僕は大学の友達と二人で中野の小さな個人レストランで酒を飲んだ。彼とは大学の1年以来の付き合い*1で、何でクリスマスイブに中野で二人で飲むことになったかは忘れてしまったけど、とにかく僕らは中野の飲み屋街を歩いて、気分的なものもあったせいか、見つけたレストラン(というよりは洋食屋さん)に入って、ワインを飲むことにした。
肉料理を頼んでビールを何杯か飲んで、それからグラスワインをまた何杯か飲んだ。若いマスターとその母親でやっているらしく、店内には僕らの他に子供連れの家族が一組いるだけだった。
父親はワインかビールにすっかり酔っぱらって顔が真っ赤で、それを奥さんがなだめている風だった。子供はまだ小さく小学生にもなっていないくらいで、酔った父親を見てキョトンとしていた。
ぼんやりと酔った頭で、何となく家族ということを考えていたのかもしれない*2。店には僕らとその家族しかいなかったせいで、その父親と幾つか話をした。
どこに住んでいるかは忘れてしまったけど、父親は中野辺りではよく飲んだりすると言っていた。高円寺はあまり知らないと言うので、ちょうど持っていた僕がたまに行く高円寺の小さくて気のきいた飲み屋の名刺を渡すとやけに感謝された。奥さんの方は「本当にすいません」と言っていたが、内心飲み屋の名刺なんかを夫に渡して欲しくないんじゃないかなと思った。
多分、その家族が先に店を出たと思う。それから僕らも幾らか飲んで店を出て、友達と別れた。特に何があったわけじゃないけど、その家族のこととその酔っぱらった父親のことをふと思い出した。
彼がその後、その高円寺の店に行ったかは知らないし興味がないけど、ただ、あの瞬間、あの家族と父親を見た時、心に浮かんだ何かがまだぼんやりと僕の心のどこかに留まっている。
久しぶりに
ネットがずっと切れていたので随分久しぶりに。例えばこういうことも一つで、後悔というのは連鎖的につながっていてきりがない。
たまには文章でも書いてもぼんやりしていたら、違う音楽でも聞いて違う気分になっていれば…。
何でそれだけでバランスを取ってやっていけると思ったのか、後で思えばすごく当たり前に見えても、渦中にいる時はもう流れの中にいて、止まらなかったりする。バランスを崩しやすいって分かっていても、いつの間にかもう大丈夫だって思うと、ひょっこり過去が顔を出して、そして全部が手をすり抜けていく。
だけど、ようやく少しすっきりして、これで良かったのかなと思えるようにはなってきた。あのまま行くよりは何かに気付けたわけで、多分それはそうなるべきだったんだろう。
髪を1年ぶりくらいに短くして、少し憑き物が落ちたらいい。またほとんど同じところに戻ってきたけど、前とはもう少し違うはずで、もう投げ捨てたりはしないと思う。長い時間をかけて荒んでいったものなら、恢復させるのにだって長い時間がかかるだろうし、それでも生きていくなら、やっぱり変わっていくしかないからね。
まぁ、今はそんなとき。